小野住建は青森県平川市(旧尾上町)で大工出身の小野照文(てるふみ)が1983年に創業した工務店です。
- 大工出身社長が大工育成を徹底
- 高断熱高気密で省エネ住宅づくり
- 無垢材、自然素材で造作の提案
- 地域密着の工務店経営
- 2代目 小野裕之の家づくりとは?
- 小野住建のこれからの家づくり
などの特長があります。当社の歩みも交えながら、小野住建の家づくりをご紹介します。
大工出身社長が大工育成を徹底
小野住建の代表、小野照文です。社内では、私はおやじと呼ばれています。
私は青森県尾上町(現平川市)で、リンゴとコメ農家の次男坊として1953年に生まれました。人前に出るのが苦手な性格だったのを父が察して、息子を職人にしようと思い、青森県平賀町(現平川市)にいる親戚の大工か、東京の親戚の塗装屋さんに世話になるか、どちら選べと言われて、地元に残れる道を選んだのが大工になったきっかけです。
工藤工務店に勤めている師匠である大工さんの元で、見習い大工をやりました。当時の大工といえば厳しい人が多く、丁寧には教えてくれない、見て覚えろというタイプが多かったように思いますが、師匠は弟子思いの人で、優しく教えてくれました。神社や和室などの大工仕事を得意とする人で、私は師匠から和室の施工など、大工の技術をたくさん学びました。
当時は今より新築需要が多く、尾上町だけでなく黒石や大鰐などでも家づくりをさせてもらいました。縁側や蓑甲(みのこ=ゆるく曲線を描いた屋根の部分)のある和風の家が多かったと思います。師匠や先輩には7~8年ほど大工仕事を教わりました。当時の大工は、月に1回も休みがない、7時~19時までずっと働き通しでした。
大工としての成長にはいくつかのめぐりあわせもありました。一つは自分が20歳の時に、私の父が実家を建て替える際、息子である自分に家を建てる仕事を発注したことです。たぶん父は息子に棟梁としての経験を持たせたかったんだと思います。私も初めての棟梁として、なんとか墨付けをやって、師匠や仕事仲間から機材も借りて、懸命に建てました。良い勉強になりました。
大工修行中でも、冬場は仕事が少ないので千葉などに出稼ぎに行き、ハウスメーカーの現場で最新の家づくりを学びました。また設計の仕事にも関わり、数多くの図面作成も担当しました。その当時の経験は住宅デザイン、プラン提案もできる大工という意味では、工務店経営の助けになりました。
22歳になって青森県尾上町に戻ってきて、大工として働きはじめました。25歳で結婚し、子どもができてからは出稼ぎは減らして、主に尾上で大工として働くようになったんです。
25歳の頃に墨付けができるようになり、お客様の知り合いから家づくりを頼まれたりという形で、自分に直接、お仕事を依頼いただけることが増えてきました。
その後、少しずつ地元の方々からの紹介で、住宅を依頼していただくことが増えてきたため、工務店を立ち上げて家づくりをするようになりました。その時には腕の良い大工が必要になります。住宅の性能、品質は、材料や設計の良しあしだけでは確保できないからです。
仕事が忙しいときだけフリーの大工さんに声をかける、という方法では、技能向上を継続的に取り組むことが難しい、そして小野住建がお客様の家を建てている、という責任感を持つためにも大工を社員として雇用することが必要だと考えました。
特に小野住建は、高断熱高気密の家づくりをしているので、大工の技能が伴わないと十分な性能、そしてお客様の要望を踏まえた造作など良い住宅を納品できません。
現在、小野住建には5名の社員大工がいて、全員が大工としてのスキルとともに、高断熱高気密の家づくりの知識を日々磨いています。
代表の小野照文を筆頭に、仕事が早く腕も一番いい古川、造作の階段を一番上手に作れる小野、若手だけど寡黙で腕がいい林、経験は短くても勤勉で人柄も良い一戸、期待の若手である高橋という顔ぶれです。
ベテランは和室や造作など職人の技と同時に断熱気密施工の丁寧さ、若手は新たな技術を身に着け、体力、やる気で会社をけん引しています。
私自身が大工出身なので、彼らの仕事ぶりや気持ちが理解できる部分もあり、大工を軸とする住宅品質、性能面で特長のある工務店になれたのではないかと思っています。
小野住建の強み
- 1 | 大工出身社長が大工育成を徹底
- 2 | 高断熱高気密で省エネ住宅づくり
- 3 | 無垢材、自然素材で造作の提案
- 4 | 地域密着の工務店経営
- 5 | 2代目 小野裕之の家づくりとは?
- 6 | 小野住建のこれからの家づくり